与謝野晶子の恩師 紫式部が訪れた越前国

   紫式部の詠んだ、日野の杉むらと白山が望める北日野地区

長徳二年(九九六)紫式部は越前守に任命された父藤原為時に伴われ越前国に下向してきた。式部が、「おどろおどろしい処」深く鈍よりした空、陰湿な越前国へ下向したのは好奇心だけでなく、二十歳年上の藤原宜孝との結婚を思案しての逃避行だったかもしれない。式部が人生のなかで都を離れたのは、ただ一度だけだった。感受性の強い式部は自然の厳しいさ、美しさを目のあたりにみて、この地で『源氏物語』の構想を練ったともいわれています。式部にとって越前の冬景色は生涯脳裏から離れることはありませんでした。『源氏物語』浮舟の巻では「たけふの国府にうつろいたまふ」と書かれています。

 日野の杉むら 越前市小野谷町集落から撮影

 北日野地区から東南方向に見える白山連峰。春、周りの山々が新緑の季節を 迎えても、白く輝く 
 美しいすがたを見ることができます。
 白山、日野山は崇高な山として越前五山に数えられ、泰澄大師が開いたと伝えられています。

紫式部公園 紫式部歌碑

   「暦に 雪降ると書きつけたる日
    目に近き 日野嶽といふ山の雪
    いと深こう見やるれば
    こゝにかく 日野の杉むら埋むる雪
    小塩の松に けふやまがえる」

式部は国司館から近い距離で、日野嶽に群立する
杉林を埋める雪をみて、都でも今日は、小塩山の
松にも雪が降っているだろうかと、都に思いを馳
せています。都育ちの式部の目に映ったのは、
美しい雪でした。
一冬の越前国での滞在で、式部は都に戻った。

  日野の杉むら 越前市畑町 
     ホームセンターみつわ屋上から撮影 

白山連峰を詠んだ紫式部

「とし偏り天 閑らひと見爾にゆかむと
 いひ介る人の
 春はくるものと
 いか天志ら勢
 たてまつら無といひたるに
 春なれどし羅年のみゆき い従つもり
 とく遍起本ど能 いつとな起き那」

春になったら、敦賀客館の宋人視察に越前の国に来るという、結婚相手の藤原宣孝の求婚に「春になれば雪は解けるもの、そのように貴女のこころも打ち解けるものと、貴女に教えてあげたいといつてきたけれど、春になりましたが越の白山は白く輝き、雪はいつ解けるかわかりませんと、歌に託して親子ほど年齢差のある宣孝にこころの内を告げています。
 しかし、国庁の場所が確認されていない越前市で、日野嶽や白山連峰を式部はどこで詠んだのでしょうか。日野嶽と白山が見えるのは越前市では限られています。もしこの歌を式部が詠んでいたならば、日野川を渡り北日野地区や味真野地区まで訪たのでしょうか。

紫式部を師と仰いだ与謝野晶子

日本を代表する歌人与謝野晶子は、少女時代から古典に親しみ、紫式部は私の
11.12歳の時からの恩師であるとはばからなかった。『源氏物語』の出会いは、与謝野晶子文学に大きな影響力を与えた出発点でした。多忙な活動の中で、晶子が執念を燃やし執筆した『新訳源氏物語』『新新源氏物語』は、日本初の現代語に訳されています。
 昭和8年11月、紅葉の盛りを迎えた、武生を訪れた与謝野夫妻は45首の歌を詠んでいます。武生の地は、紫式部ゆかりの土地だけに感慨深いものがありました。
「われも見る 源氏の作者をさなくて父と眺め越前の山」 晶子